民謡山河
祭りの向こうに
行方定めぬ道なれば 来し方もいづくならまし
謡曲「鉢木」の出だしに思いをはせて、旅は始まった。「民謡山河」は写真月刊誌「日本カメラ」に連載した写真群である。今は亡き写真評論家・田中雅夫氏の古典落語のごとくリズミカルで流暢な文章と、当時30歳代後半だった私の写真による連載は、1978年1月号より1979年12月号まで丸2年の長期にわたるものであった。
田中雅夫氏は私がアマチュア時代からお世話になった「先生」で、年の功も亀の功もあわせ持った軽妙洒脱な人であった。ことさらに何を教えてもらったというわけではないが、この旅で得たものがどれだけ大きかったかと、今だからこそ確信をもって振り返ることができる。
第1回は、二人とも知人がいないというおかしな理由で、富山県「越中城端(じょうはな)の麦や節」。以後、日本全国というには少ない22県の民謡・祭りを主題に、短い旅を24回。最後は再び富山県、「越中おわら節」(「風の盆」として優美な祭りは観光客に人気が高い)で幕を閉じた。
田中氏も私も予め綿密な計画を立てるタイプではなく、風の誘いにつられるような調子で行く先を決めていた記憶がある。とはいえ、オシゴトであるわけで、毎月毎月の締め切りに追われ、しばられることが極度に苦手な性分の私はそれをこなすことしか考えておらず、日本人の原点ともいえる伝承に触れながらもただひたすら目の前に現れる被写体をあれもこれもと撮っていただけであった。
しかし、昔から「百聞は一見にしかず」というように、こちらにその気がなくても自分の足でその土地を踏み、見聞きしたものは生涯消え去ることはない。深い川底からゆっくりと水面に立ち上ってくる泡のごとく、私の人生の途上を横切ってはまた姿を隠す。
プルーストの「失われた時をもとめて」にマドレーヌと紅茶にまつわる無意識的記憶の話が登場する。あるきっかけがめぐらす感覚と記憶の蘇生。無意識的記憶とよぶほどには私にとってこの経験が遠い過去でないにしても、いわば仮死状態として沈んでいる思い出の封が日常の折り目に時折ほころびをみせ、私の感覚の一部に影響しなかったとは言えないだろう。
取材した土地や民謡はそれぞれの良さを持っているが、特に印象に残っているのは、長野県下伊那郡阿南町の新野の盆踊りだ。午後9時から夜明けまで、3晩に渡って行われるこの祭りは素朴そのものである。囃子などの鳴り物は一切無い。唄声に合わせて地元民が手踊り、扇踊りをするのみ。小さな町の静かな夜に懐かしさを誘う唄声と、糊のきいた浴衣のすれる音が響く。最後は初盆の家が出した切子灯篭を先頭に村落境まで向かい、灯篭を火に燃し、また唄が始まると人々はたちまち踵を返し、後ろを振り返ることなくそれぞれの家にもどってゆくのだ。
取材中、道端で出会った中高年の男性をスナップした。その写真を掲載して10年近く経とうというある日、見知らぬ若者より手紙が届いた。写真の男性は彼のオジで、2、3年前に亡くなったのだという。近く行われる法事に写真を飾って遺族をなぐさめたいとの内容だった。「きっとオジは、今こんな場所にいるのだと思います」。まばゆいほどの満開の夏花が咲く一本の木の下で、とうもろこしをかかえた男性が微笑んでいる。偶然に撮った写真は彼の言葉によって永遠の時を得たのである。
新野の盆踊りは、その月の取材のメインではなかったが、お盆の真髄と言える叙情性とこの一通の思いがけない手紙とともに忘れられない祭りになっている。
「喚声」というタイトルで恩賜上野公園に集まる人々のスナップ作品を発表したことがある。公園に立って人々を見ているうち、子どもも大人も声にならない呟きを発しているように思えた。否、呟きというより、心の叫びだと思った。人々の煩悶が憩いの場の中空に浮いて見えたのである。私は民謡にもまたその叫びを聞く。
歌舞伎や謡曲とは異なり、祭りを伝承する人はまったくの一般人だ。田畑を耕す隣のおじちゃん、同級生のパパ、一日中家事に追われているうちのお母ちゃんだったりする。そんなごくごく普通の人が一年に一回、「仮装」し、朗々たる声を闇の向こうになげかけるのである。いつしか個の声は唄が受け継いできた幾千幾万の民の叫びと一体になり、個を超えたナニモノかに押し上げられ永劫の彼方へと融けていく。祭りは生と死が織り成す汗にまみれた襷(たすき)によって過去と未来をつないでいるのである。
一人一人の祈りが集積されて、祭りは昂揚してゆく。唄や太鼓にのり、平手で空を切り、手をたたいて時を切り、後ずさり、跳躍し、身体をひねっては日常の呪縛から解き放される。人々は、大昔から祭りの一夜にここではない場所へ飛び、自分ではない自分になるすべを知っていたのだろう。祭りという魂の時間から日々の生活にもどった人間の表情に目を配ると、どの顔も愛おしく、どの人生も切なく思えてくる。
そのころの私は「風姿花伝」を終え、しばらく6×6のハッセルブラッドを持ち歩いていた。以降、一つのカメラに固執することなくあれやこれやと試し、対象も日常を主としながらも、ヌードやフェティッシュにも手を伸ばしたり節操のない写真人生を歩んでいるが、あの時期、日本の心に触れる旅ができたのは本当に良かったと切に感じている。
「民謡山河」は、民族探訪でもなければドキュメントの鎧もつけていない、初老の趣味人とチョビ髭をはやした小デブのカメラマンの旅日記であった。この写真集を出版するにあたって改めて連載誌を取り出し、田中氏の文章に目を通していてふと目が止まった。こう書いてあった。
「……そのうちに周囲のざわざわやがやがやの騒音は聞こえなくなり飲み屋の様子も見えなくなり、暗い街筋のところどころにほの暗い明かりがあって浴衣を着た人たちが長い輪になって郡上のナーの唄声につれて姿かたち美しく踊っており、その中に紛れもない私の妻の姿があり、彼女は楽しそうな笑顔で手を振り足を踏み、その周りには(略)、まだ結婚もしなかった学生時分の娘の姿が見え……」
胸が詰まった。この連載中、田中氏は奥さんを亡くした。にもかかわらず、感情に流されることもなく淡々と仕事をこなしていた。当時も読んだに違いない文章がはじめてのように沁みるのは、30年という時の流れが私の感受性の器を柔らかくしたせいかもしれない。
踊りの輪には、様々な年齢の人々が加わる。子どもから少女、妻、母、そして老婆と女性の人生が(男性も同じだけれど)繰り広げられているようだ。まるで輪廻転生走馬灯である。その姿に、亡くした子を想い、妻を想い、母を重ねる人がいても不思議はない。祭りの夜の感慨は、想像を超える深さと悲しみを含んでいるのである。
バシュラールの「水と夢」という作品の中に「夢の中で見た風景でなければ、人は美的情熱をもって眺めないものだ」という一節がある。
祭りの後、「夢のようだった」とは言い古された感想なのだが、こう考えると、祭りに関する思い出の数々がとびぬけて美しく人の心に残るのも、現実を離れた時間のなせる所以なのかもしれない。
祭りがどこであれ、必ず写っているものがある。祭りの向こう側にある見えないもの。若い頃は一方的に見る側に立ち、向こう側を「撮り押えていた」筈の自分が、60歳半ばを過ぎ、それらの写真からかつて抱くことのなかったあふれる想いを受け取っている。そして私もまた輪踊りの中の一人なのだと初めて気づかされる。向こう側は私の中にあるのだ。旅の余韻は30年の時を経て今の私を突き動かしているのである。
写真集「民謡山河」あとがきより